「駅前に何もない」のは本当か

「○○駅なんか、駅前何も無いよ」と誰かが言ってるのを、聞いたことあるだろう。もしくは言ったことあるだろう。

「駅前に何もない」

この言葉、気軽に言うけれど、いったい何があれば「何もない」ことがないというのだろうか?

そう考えるとよく分からない。大概、何かあるだろうよ?

この写真は僕の住んでる街、梶が谷駅である。みすぼらしい駅舎だ。駅の中には売店が一つで、エスカレーターも無い。当然、急行も止まらない。
人はこの駅の周辺のことを、「梶が谷なんか駅前何もない」と言う。ここに「何かある」なんて一度も聞いたことがない。

しかしだ。これでも首都圏だし、渋谷から20分で行ける。都市か田舎かと言われれは都市だし、川崎市だから地方都市というわけではない。人もたくさん歩いている。

じゃあ、何かあるだろう?

実際、駅前に何があるかというと、目に入る範囲内では
・ドトールコーヒー
・タリーズコーヒー
・増田屋(そば屋)
・ファミリーマート2件
・東急ストアー
・コージーコーナー(ケーキ屋)
・千代田鮨(持ち帰り寿司)
・美容室いくつか
・マッサージ、鍼灸店
・ケーキ屋
・コジマ
・歯科、小児科、内科とか
・大きな郵便局
・進学塾
・合気道道場
・モスバーガー
・文教堂書店
・ココカラファイン
・らーめん翔太(ラーメン屋)
・フォトワン(DPE屋)
・花屋
・不動産屋いくつか
・銀行いくつか

ってな所である。結構色々あるじゃないか。
それでも、「何もない」と言われるのだ。

つまり、「何かある」と言われている物が無いか、これだけでは足りないのか、どちらかだ。

でも確かにこう見てみると、「若者の遊び場」「居酒屋」が無い。
ここに「ワタミ」とか「鳥貴族」が入り、若者の遊び場として「ラウンドワン」があったりすると、「何もない」なんて言われなくなる、のだろうか。

それは分からない。
それらがある駅でも、人によっては「何もない」と言っている気がする。
何もない地獄。何もないお化け。一体お前は何があれば満足するのだ。

一つの仮説を立ててみる。
「何もない」の判断基準は、「同一路線内 もしくは 同一地域での、相対的な判断基準」なのではなだろうか?

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例えば田園都市線だと、何かある駅として「三軒茶屋」、「二子玉川」、「溝の口」、「たまプラーザ」などが挙げられる。
田園都市線をよく使う人だと、これらの駅について「何もない」と言うことは、まず無い。むしろ、イメージ・リーダーとして崇拝しているくらいだ。沿線マダム達も「二子玉川さま、たまプラーザさまがあるから、我々がおしゃれ私鉄沿線でいられるんですぅ」と熱く信奉している駅々である。

実際これらの駅の周りにはそれぞれ「何かある」。
三軒茶屋は東京の大都会で居酒屋やこじゃれた店がいっぱいでキャロットタワーもあるし、二子玉川は「ライズ」と「高島屋」、溝の口は「マルイ」「ノクティ」とゴミゴミした安い居酒屋、たまプラーザにはおしゃれな「たまプラーザテラス」「東急SC」。
それらの存在が「何かある」の要素となっていることは疑いようがないし、この駅々と比べると、梶が谷なんて吹けば飛ぶような駅だ。何もないと言われても仕方ない。ドトールやタリーズがあるだけではだめなんだ。

ただこれは、田園都市線という閉じられた世界だけでこうなんだから、山手線沿線にもなると、もっと熾烈なのではないか。

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都心をぐるっと回る山手線。
滋賀から出てきた田舎者の自分からしたら、山手線なんかどの駅も超都会だし超東京だし、全駅何かあり、勝ち組達のステーションだ。

しかし、山手線をよく使う人に言わせると、「大崎には何もない」「代々木には何もない」「目白には何もない」「駒込には何もない」などと言うのだ。

ほんとかよ。何もないって。

さすがに「渋谷には何もない」「新宿には何もない」「秋葉原には何もない」なんて言ってると、もう「お前が探してるものは日本のどこにも無いんじゃないか?」と言いたくなるので、そんな事を言う人は見たことが無いが、大崎や代々木に何もないというのは、さすがにどうかと思う。いろいろある気がするのだけど。

何かある」とはいったい何があることなのか? 誰か教えてくれ!

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本当に「何もない駅」とはこういう駅のことを言うんじゃないのか

何も無くてよいのではないか