万博、始まったな
開幕2日目、私は初めて入場した。
20分ほど並んで入ったアメリカ館で、月の石を見る列に並んでいた時。
前の老夫婦がこう言った。

「55年ぶりやねぇ~」
私はその言葉に、一気に持っていかれた。
この老夫婦は55年前の1970年、大阪万博でアメリカ館に入り、アポロ12号が持ち帰った「月の石」を見たのだろう。
そこから55年の歳月を過ごし、今もまだ元気な夫婦で、これから再びアメリカ館で「月の石」を見ようとしている。
私は全身が身震いした。
そう、これが万博であり、万博は人生の一部なのだと。
この瞬間から、私のEXPO2025 大阪・関西万博が始まった。
私には万博コンプレックスがあった
私が小学校3年生、1985年のとき。
どこにあるかも知らない「つくば」という所で、「つくば科学博覧会」が開かれているということを、学研の本で知った。
私は学研の「つくば科学博特集」を破れるほど読み続けた。
ロボットがエレクトーンを弾き、オンラインで全ての情報が届き、巨大なテレビでロードランナーをする。ここには確実に未来がある。
これは行きたい。でもここは滋賀県、つくばには遠すぎる。
夏休みが明けて2学期が始まった時、同じクラスのI君が「つくば科学博行ってきたぞ。IBM館、ベルギー館に行ったぞ」と私に言った。
(♪スネ夫が自慢をする時のBGMで)
ムキー!
I君は親が日本IBMの社員で、家族全員で茨城県まで行ってきたという。
しがない公務員家庭の私にはたぶん縁がない。
行きたい行きたい行きたいつくば科学博に行きたい、と思っているうちに、博覧会は終了した。
私の頭の中には生煮えの未来図、I君への一方的な憎悪と共に、「万博」に対する強烈なコンプレックスが残された。

花博で大きな衝撃を受けた
中学2年生、1990年。時はバブル真っ盛り。
大阪の鶴見緑地では「EXPO’90 国際花と緑の博覧会」通称「花博」が開催された。
花かよ。もっと科学技術とかサイバーなやつを見せてくれよ。
つくば科学博コンプレックスを引きずった面倒臭い中学生の私はそう思っていたが、大阪に住む親戚と一緒に、開幕2日目となる4月2日に花博に行った。

おおお、おおおお!すげースケール!
ワケの分からない建物がいっぱい!何ここ!
JT館、電力館、咲くやこの花館、三菱未来館、住友館、三井東芝館、富士通館、フローラドーム…
何だか知らないが全部見たい、これは凄い、と思い、いくつか入った。
日本経済が勢いに満ちあふれていた頃で、全てがキラキラしていた。
そんな中、私は「三菱未来館」にやられた。
全天周360度のドームスクリーン、それ自体は珍しくないが、ここはフロアが強化ガラスになっていて、下にも半分のドームスクリーンがあり、完全に球体の中で映像を見るという物だった。
大林宣彦監督により、フィルムカメラを前後にくっつけて、それぞれに魚眼レンズを装着し、ヘリからぶらさげて撮影したびっくり映像の数々。
ドローンも無くCGや画像処理も大したことのない時代の、アクロバティックなアナログ撮影で、ナイアガラかイグアスかの滝のギリギリまで寄ったり、アフリカの大地とか森林とか、と思えばオランダ運河の船で生活する子供を間近に映したりと、とにかくドラマチックで迫力があったのだ。音響も凄かった。
「電力館」は何万本か分からないくらいの光ファイバーが凄い空間を創り、坂本龍一の音楽が鳴り響く中、ライドに乗って巡った。
私は「これだ」と思った。
積年のつくば科学博に行けなかったコンプレックスと、I君への一方的な憎悪は、この花博で一応消えた。まあ、許したろ。
余談だが花博の開幕2日目、水路の上を船のような乗り物で「街の駅」と「森の駅」の間を移動できる「アドベンチャークルーズ ウォーターライド」に乗ろうと街の駅で待っていたら、私の真後ろでガシャーン!キャーー!と音がして落下事故が起きた。あれにはびっくりした。
写真あるけど貼らない。
花博には通算4回行った。毎回、三菱未来館に直行した。
8月頃、安全対策して事故から復活したウォーターライドに乗った時、カーブなどでちょっと揺れたら、コンパニオンさんが「大丈夫です!落ちませんから!」と言ったのを覚えている。いやいや。
そして2005年のある日、私は愛知にいた
花博でガツンと衝撃を受けた私は、次の万博はいつだ、いつだと待ちわびた。
ついにそれが来たのは2005年、愛知県での「愛知万博」、愛称「愛・地球博」だ。
私は東京での社会人、29歳になっていた。自分の金で行った初めての万博である。
まずは当時、友達と二人で2日間、4月に行った。ナガクテってドコや!?と言いながら。

浮上してスーっと走る「リニモ」にいきなり感動。
そして電力館に三菱未来館、私が花博で感動したパビリオンがアップデートされてここにあるではないか。
冷凍マンモスにリニアモーターカーにトヨタのモビリティ。
そして海外のパビリオン達。
ああ、これが万博…盛りだくさん過ぎて凄い!
会期中、ここも4回行った。たくさんの刺激を受けた。
終盤の9月頃になって別の友達が行きたいと言うので一緒に行ったら激混みで、入場すら1時間以上並び、どのパビリオンも3時間待ちのような表示が出ていたことを覚えている。
次、大阪に来るらしいで!
愛知万博からずっと経って、また大阪で万博が開催されると決まった2018年のある日、関西の友達と居酒屋で飲んでいた。
「関西の経済は2025年まではとりあえず安泰やな」みたいなことを言った覚えがある。
2019年末、私は東京での会社勤めに終止符を打って滋賀の田舎にUターンし、収入0からの個人事業主として再スタートした。
そしたら変な流行病で世の中がグチャグチャになった。
そのせいで東京でのオリンピックも1年伸び、どこかのクソ正義感野郎による「キャンセルカルチャー」によってクリエイター達が降ろされ、消えていく様子を見せつけられた。
国主導で作ろう・盛り上げようとする物に対して、ネット主導で批判しよう・壊そう・引きずり降ろそうという対立構造を見せつけられた。
大好きだったMETAFIVEのアルバムまでも発売中止になり、そんなカルチャーいらねえよと心から思った。
こんなに不運なオリンピックもないだろう。
では万博は? 今度ひきずり降ろされるのは誰の番だ?
不気味なほど静まりかえる万博前の世の中と、どんどんヒートアップする批判。それがどんな内容か、皆さんの知るとおり。
だが私の根本にはつくば科学博コンプレックスがあり、花博での衝撃体験があり、大人になってからの愛知万博での学びがある。
だから私は大阪・関西万博を信じて、期待して、2024年の4月、「通期パス」を買った。
「えっ、3万円も出したの?マジで!?」
「前売りが全然売れてないらしいけど大丈夫なん?」
そんな反応をよそに、静かに開幕日を待った。
「10回は行くぞ~」と、SNSに書き込んだ。
10回も行けば相当だろう、全て行けるだろう、元は取れるだろうと。
誰も客がいないEXPO2025オフィシャルストアを覗くとミャクミャクグッズが陳列されていた。売れている気配は全く無かった。
私はここに3万円を出したんだな、と少しゾクゾクした。
2025年になった。
開幕日の4月13日はAdoのライブには落選したことと、悪天候だったこともあり、翌日の4月14日、待ちに待った大阪・関西万博に一人で行った。
言葉に出来ないくらいの衝撃があった
4月13日の開幕日は大勢の人が来場したが、受け入れ体制が不慣れだったりして、色々と不都合があったらしい。
そこに悪天候や強風も加わって、悲惨だったと言う人を多く見た。
翌14日はすっかりと晴れた小春日和。
入場者数も一気に減り、1年前に買った通期パスのQRコードを見せて、何のストレスもなく12時に入場した。

地図などを見ず、下調べもさほどせず、とりあえず動き回る。
あれだけ批判された「大屋根リング」から、木の香り。下を歩くだけで癒やされる。
何よりもめちゃくちゃ綺麗だし、デカい。なんだこれは!
ちょっと色々と目移りしてキリがない。
これは大変だという予感がした。
一番最初に「とりあえず」入ってみたのはUAE館だった。
待ち時間0でサーッと入れた。そして謎にデカい空間に圧倒された。
フランス車に乗る私は、フランス館に入りたい。
それくらいの気持ちでフランス館に向かい、10分ほど並んで入館。
モンサンミッシェルと厳島神社がしめ縄で結ばれたオブジェに衝撃を受ける。
お隣のアメリカ館にもついでに入ってみようかと20分ほどで入る。
スゲー! やはりハリウッドのある国は映像表現が違う。
そして私はここで、冒頭の老夫婦の会話を聞いた。
「55年ぶりやねぇ~」
そうか、これは万博だったんだ。
あの1970年の万博の正当な続編とも言える「大阪での万博」。シンボルマークだって1970年万博のものの再構築だ。
この瞬間に、実感として私の万博が始まった。
これはエラいことになったぞ。
個性的なパビリオン、これが2025年の万博の姿なのか~!
ポップアップステージでは極真空手の演武をしていた。
この「大屋根リング」というのがとにかく気持ちいい。
絵になる。なりすぎる。
どのパビリオンもメッチャ格好いい。
愛知万博の海外パビリオンは全部プレハブの四角い形だったから、こんな自由な、そして奇天烈な建築は、本当に1970年以来の55年ぶりのこと。
これを生で見るだけでも凄いことよ。
もう目に飛び込んでくる物全てが、衝撃的。
これはヤバい。
インド館、ぜんぜん建築途中なんですけどー!
スッカスカのイタリア館を見て。
ここがのちに7時間待ちになるなんて。
なんて平和なのだろう。
美しいなあ。
見てよこれ。トルクメニスタン館はトルクメン語の解説で、字幕なんてもんは無かったんだぜ。
意味が分からない! でも犬がキラキラしていた。
コロンビア館の中にあるカフェで買ったアメリカーノが、すごく美味しくて。
夕方になって肌寒くなった所に、ちょうど良かった。
花博での三菱未来館に衝撃を受けた私は、ここでも予約系パビリオンは三菱未来館を最初に選んだ。
まだ2日目、前説を担当する女性スタッフさんが途中でスクリプトを忘れ、「すみません、頭が真っ白になっちゃいました…」と言うハプニングがあったけど、お客さんは優しくて拍手で優しく迎えた。
2025年の三菱未来館、花博のような衝撃は全く無かったけど、私は次の万博も多分また三菱未来館から行くと思う。
こんなにスムーズに遊んでいいの!?ってくらい満喫して、私の万博1回目は終わった。
とにかく万博に行け、攻略せよ
それから私の万博通いがスタートした。
週1くらいのペースで、昼に入るか、夕方くらいに入るか。
7日前予約、3日前予約、当日予約をブン回す日々。
コモンズ館の果てしない面白さに飽きることも無く。
ペルー館、ナスカの地上絵にブチ上がらない男子はいない。
ヨルダン館の赤い砂はサラサラで。
ちょっと遅れてオープンしたブラジル館は最初何の説明もなく、不気味で良かった。
電力館の最後は花博の「ひかりファンタジー電力館」を思い出させるし。
ドイツ館のサーキュラーはやたらカワイイし。
ウクライナ館はひたすら泣けるし。
ハンガリー館、最初はロボットかと思った。
とんでもねーーーもんを見た、そんなパビリオン。
まだ帰りたくない、そんな日が増えて。
圧倒的な表現を見せつけられて唖然としたり。
突然のアナーキーさに笑ったり。
滋賀を再発見して泣きそうになったりして。
ライトアップも完璧で卒倒。
なんすかこれは。
何杯飲んだか分からない、チェコ館のビール。
アコガレのサウジ館レストラン、絶景が過ぎる。
住友館は本当に凄かった。
アイルランド館では一番右の彼が最終日だというので、1時間半もケルト音楽を楽しませてくれた。
この噴水ショーに何度心を動かされたか分からない。
フラメンコで心震えたことはあるか?
今度は鳥取砂丘の上を歩いてみたり。
圧倒的な哲学性を感じさせてもらったり。
丁寧に作られたVR空間は物凄い迫力で。
自分がこんなツーショットを撮る日が来るとは思わなかった。最高である。
お坊さんが250人も集まったり。
天皇陛下をお目に掛かったり。
落合さんのDJでブチ上がったり。
25年後の自分に会ったり。
私は1990年の花博での「三菱未来館」のような全天周スクリーンの体験を、ずっと探していた。
愛知万博では長久手日本館の「地球の部屋」がそれだった。
今回の万博ではどこだろう?と探し続けて、たどり着いたのがここだった。
「いのちめぐる冒険 超時空シアター」。マクロスの河森正治監督による、物凄い映像体験。凄すぎて唖然。
そこに菅野よう子さんによる楽曲が、とめどない感情の洪水を引き起こす。
ずっと求めてきたものがここにあった。
私は1990年の中学2年、花博に感動した自分に戻れた。
このパビリオンを最後に、私の全パビリオン制覇は、32回目にしてようやく達成できた。
ここまで凸凹とした長い道のりだった。
友達の助けを借りて、予約が取れたこともあった。
「10回は行くぞ~」なんて甘過ぎた。舐めていた。
私は少しホッとした。とはいえサウナとか、まだ細かい積み残しはあるけど許して。
最終日の奇跡
そんな大阪・開催万博、10月13日の最終日。33回目の入場となった。
もう9月中頃から激混みの日々である。
いつの間にか、とんでもなく愛される万博になっていた。
そこかしこに愛があった。
多くの人が別れを惜しんだ。
熱狂の渦があった。
フィナーレイベントは、これでもか!というほど「祭り」でもてなされた。
お別れという感傷が未来への希望に変わる。
クラゲ館の最終日は超ハッピーだった。
超弩級の花火が上がった。
最後のドローンショーを見逃してしまったことが残念だったが…
最後のアオを見る前、なんと… 菅野よう子先生に個人的にご挨拶することができた。
私は感無量になった。曲の感想をあんなに熱く語る自分にちょっと驚いた。すみません。
もう本当に素晴らしくて。
最終日の最後にそんなことがあったので、万博が終わる感傷はなぜかほとんど感じなく、フワフワとした足取りで、ずっとこの場にいたくて大屋根リング下のベンチでボケーっと座っていた。警備員に促されて、やっと帰ったみたいな。
ここに書き切れないことが、まだまだいっぱいあって。
万博を通じて知り合った人も多くて。
「収穫」なんて安い言葉では語れないほど、大きな経験となった。
1970年の大阪万博に行った人が、何十年も経ってるのに、「万博はおもしろかったねぇ~」と言い続ける気持ちが分かった。
アメリカ館で見た老夫婦もたぶんそういう人だろう。
あの時めちゃくちゃ面白かったから、55年経って、たぶん最後だけど追体験しよう、と。
万博ってそういう存在なのかなと。
半年で終わってしまうから、その時に行けなければ二度と行けないもの。
私は2025年の大阪・関西万博をこれからも思い出しながら生きていくだろう。
会場で同じ体験をした万博友達と、お酒でも飲みながら語るのだろう。
とにかく楽しかったです。ありがとうございました。
また次の万博で。横浜? リヤド?
そんな気持ちを込めて作りました。
「万博メガミックス」
どうぞ。