美味しい物を食べたいと思った時、どうするだろうか。
「食べログで点数の高い店に行く」
「お高い店に行く」
「やはり家族の家庭料理が一番」
「お気に入りのお店に行く」
いずれの方法でも、美味しいと感じられれば正解だと思う。
ここで少し、考えてみた。
そもそも「美味しい」とは、どういうことなのだろうか?
その「美味しい」を感じるのは、舌ではなく「脳」
人間の様々な感覚は、五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を始め、会話や雰囲気による情感、これまでの自分の記憶や経験、そういったものが脳の中で処理をされた上でアウトプットされる。
「美味しい」という感覚も例外ではなく、舌で感じた「味」から始まり、匂いや見た目、全ての情報がインプットされる中で、全ての情報のベクトルが「美味しい」という方向に向かった時に、脳が「美味しい」というシグナルを出す。
言い換えれば、全てのインプットをしっかり感じることが、「美味しい」を感じるために重要となる。
食事に対して最短距離を求めると劣化する
情報過多で時間の無い現代人は、食事は「早く済ませる」「ハズレの無い店を選ぶ」という必要に駆られることが多い。
自分も例外ではなく平日の昼食などは、午後からの仕事のため、減った腹に対して適当にカロリーを詰め込む、みたいな食事になることが多い。
これではせっかく良い味の料理だったとしても、脳が「美味しい」というシグナルを出すには物足りない。
それは何が問題かを考えてみた。
「腹が減ったから何か食う」という食事では、これらの問題が起こりがちである。
その結果、味のポテンシャルが10あったとしても、脳からの「美味しい」シグナルは3くらいに劣化する。
「昨日の昼、何を食べたか覚えてない」ということがよくあるが、それはこういった食事方法を採ったからだろう。
とはいえ、時間が無いのだから仕方が無い。いちいちチマチマとした食事をしてられない。
だから、せめて休日などの時間のある時には食事という一連のプロセスを考え直し、何でも最短距離を狙うのではなく、食事に対する解像度を上げて人間の感覚を鋭くし、「美味しい」を感じるための道筋を再確認する機会を設けたい。
「味」以外の要素を大切にする
「美味しい」を感じるために必要なのは、
この3つだと考える。
そのうち、「味」に関しては料理人の仕事であり、食べる側はコントロールできない。(せいぜい、醤油をつける量とかその程度)
では「五感」についてどう感じれば良いだろうか。
例えば、どこかのレストランに入るとする。分かりやすく、ステーキハウスにしよう。
まず、目からの刺激。
そのステーキハウスに入ってみると、お店の内装が60’sなアメリカンな雰囲気で統一されていたとする。
ムーディな照明、調度品や壁に掲げられた60’sアメリカの映画のポスターが、そのような雰囲気を出している。
60’sアメリカンの時代に自分は生きてないし、大して何も知らないわけだが、何となく「昔のアメリカ=裕福で文化的、肉が美味そう」という想像をする。
これが会社の会議室などの、パイプ椅子と長机が並んでいるような味気ない場所だったら、とても「美味しそう」という気分にはならないはずだ。
次に音、耳からの刺激。
ステーキハウスならプレートの上で肉が焼ける音だけで「美味しそう」と感じることが出来るが、何かしらのBGMがかかっていることも多い。それはどんなBGMか?
こういう店であればオールディーズがかかっていることが多い。
まさか、安いそば屋とかスーパーでかかってそうな有線のJ-POPインストカバーチャンネルでは無いだろう。
匂いはどうだろうか。
ステーキハウスは割と強めの匂いがする。肉の匂い、ソースの匂い、ペッパーの匂いだろう。
この3つの匂いが混ざるだけで、味への期待値が高まる。
触感について。
実際に手に触るものは食器である。ステーキだったらナイフとフォーク。手に持つ柄の方にパインウッドが誂えてあり、適度な質感があったりすると、何か嬉しい。これも「美味しい」へのベクトルとなる。
そして最後に味だろう。
これも、「自分は何を食べているか」「その素材の味を本当に感じているか」を考えながら食べたい。
肉だと、どこ産の肉で食べている部位はどこか。オーストラリア産でも黒毛和牛でも良いのだが、何も分からず「肉」だけをがっつくのではなく、例えば「熊本産の黒毛和牛のリブロースを食べている」ということくらいは分かっておきたい。
そしてよく噛むことも重要だと思う。特に、肉の味を感じるためには、よく噛む必要がある。
ペッパーやソルト、ソースなどの味付けはほどほどにして、素材本来の味を楽しむためには、ゆっくりと噛んで食べる方が断然よい。
もちろんこれは肉に限らず、全ての料理において言えることだと思う。
「情報」を美味さに変える
五感以外で、味を大きく左右する要素として「情報」がある。
人間は、情報によって脳のアウトプットが大きく左右される生き物だと思う。
例えば、カレー屋さんの店内に「第○回 カレーグランプリ優勝店」という賞状が飾ってあるとする。
それが飾ってある店で食べるカレーと、飾ってない店で食べるカレーとでは、「カレーグランプリ優勝って、ホントか? どんなのだ?」と気になることにより、カレーに対する感覚が違ってくるのではないだろうか?
また、過去の経験として、とある漁港に行って食べた海鮮丼が美味しかったとする。
新鮮なマグロ、ウニ、サーモン。「あの味をもう一度食べたい」と思うことは必然だ。
その漁港のある港町を店名に付けた店があれば、その過去の経験がフラッシュバックすることにより、他店舗よりも期待値が上がったりするのではないだろうか?
店名も重要な要素だ。
チェーン店の本店を巡るなんて活動をしているが、「本店だったら美味い気がする」というのはあながち間違ってなくて、「本店」とか「元祖」とかが掲げられたお店は、なんとなく説得力が増している。
「元祖」だったら美味い…なんてわけはないし、何の元祖なのかよく分からないことが多いけど、「一番最初にやったやつこそがオリジネイターでありリスペクトされるべき存在」のような迫力があり、「元祖 たこやき店」と銘打ってたら普通のたこやき店よりもなぜか期待値が上がる。
かといって、事前情報による過度の期待は禁物だ。
食べログの点数が3.9などの高評価の店に、物凄く高い期待値をもって行ったとする。
それで満足すれば言うことないのだが、それほどでも無かった、とか、普通、などと思ったりすることもある。
「3.9」で「普通」って、悲しくないですか?
これは「3.9」という点数だけに振り回され、「ここなら自分の快楽中枢をめちゃくちゃ高いレベルで刺激してくれる」と勝手に思い込み、それ以外を見ず、最短距離で食事をしたことが原因だ。
そして、同様に過度の期待値を持った他の客もいたりして、「食べログの点数が高いのに、その程度なの?」といった傍若無人で失礼な言動をはたらく客と出くわすこともある。
お店側としては、お客さんだから対応するけれど、良い雰囲気にはならない。その雰囲気は他の客にも伝播する。
「食べログ3.9だから行ったけど、味は普通だった」というのは、上述の「五感」や「情報」、そのどれもをすっ飛ばし、クイズを解くのに先に答えを見てしまうような行動に近く、行動が少し貧しい。
時間をかけて丹念に
本当に良い食べ物は、とにかく時間と手間が注ぎ込まれた物である。
それに対して、食べる方も時間をかけて、じっくりと楽しみ、感じて、味わう。
食事に対する解像度をワンランク上げることで、何気ないパスタも、寿司も、カレーも、なぜその味になったか、なぜ美味いと感じるのかが見えてくるかも知れない。
ゆっくり食べると隠し味を発見することもあるだろう。
出汁の中に、柚子が隠し味として施されていたことが分かったら、料理人に「柚子、入ってますね」と言ってみると、喜ばれたりする。そこから会話が生まれたりする。
食べ物を美味しく食べるとは、最短距離を求めるのではなく、立ち止まって、ゆっくりと感じながら、食べることだと思う。
そうすれば、市井の全ての食べ物が、少し美味しくなるのではないかと思う。